last updated 1997/05/28
第13話(全130話)
マスター (2/3)
マスターの周りをオメメダカの一群が泳ぎ過ぎて行った。大気の中を泳ぐちいさな魚で、彼
らはこの重たい大気が気に入っているらしく、主にエルモの森を生息地としていた。
特に興味をそそられたふうもなく、オメメダカの一群をやり過ごすと、マスターは少しだけ移
動する速度を速めはじめた。あまり長い時間、この濃密なアルコール性の大気の中に身を置き
過ぎると、手足のゴム性蛇腹部分が腐食の危険にさらされることになる。マスターの機関内で
そのことを告げるアラーム表示が点灯しはじめていた。ロボットは主の命令に忠実に従うよう
にシステムアップされていたし、人間のように危険に対して尻込みしたり、怯んだりするよう
なことはない。けれどだからといって、わざわざ好んで危険の中に身を置いて、そのスリルを
楽しんだりはしないし、たとえ命令を受けても自分を傷つけるような行為には絶対に及ばない
。ロボットは主の命令に従わなければならない、ロボットは他の生物を故意に傷つけてはなら
ない、そしてロボットは自分を守らなければならない。これは地球のSF作家アシモフが説い
た『ロボット三原則』だが、そういう言葉とも作家とも縁のないこの世界においても、同じ主
旨のルールが存在しているようだ。人間と肩を並べられるだけの機能を持ち、ある面では人間
を凌駕する機能を持つ機械の扱いには、どうしても必要な、それは三原則なのだろう。命令を
忠実に遂行する、人間以上の機械。それは邪な心を持つ者の手に落ちれば、便利な道具から恐
怖のモンスターへと、いともたやすく変貌してしまうのだから。
マスターは姫を守れ、という基本命令に従いながらも、自分を傷つけてはならないという自
己保存プログラムに追い立てられ、アルコールの森を急いで通り抜けて行く。
森を抜けると、その先は断崖になっていた。
断崖の中程に、岩壁から真横に幹を突き出すようにして、ニューミーの古木が枝を張り出し
ていた。二百メートル向こうの対岸へと自らの体で橋をかけようと、この三百年間踏ん張り続
けているのだ、と言っているような感じだ。ニューミーの太い幹はほぼ水平に眼下の川を見下
ろしながら、岸壁から突き出していた。
マスターはその幹を覆った赤い苔を土壌にして咲いている花を確認する。目的の茶色い花は
そこにきちんと咲いていた。コンピュータのデータに刻まれていた通りに。マスターは花の茶
色い花弁を一五メートル上方から見下ろすと、さっそく花の採取に取り掛かる。高さへの恐れ
も、失敗への不安もなかった。機械はただ、目的遂行のための手順を一から開始するだけだ。
マスターはまず胸の蓋を開けると、中に収められていたワイヤーをリールから引き出し、足
元の岩盤にワイヤーの先の矢じりのような形の金属をドンッと打ち込んだ。そして固定したワ
イヤーの強度を確かめるために一度グイと引いてみる。コンピュータが腕にかかった力の量を
測定し、充分に自重を支えられると判断すると、ゆっくり断崖へと身を乗り出し、短い足で垂
直の壁を伝って下降しはじめる。ワイヤー一本に支えられて、体を断崖に対して水平に倒しな
がら、マスターはまったくの無表情のまま、黙々と茶色い花へと向けて下降し続けて行く。
心というものはそこにまったく介在していなかった。あるのは命令と、それを処理するデジ
タル信号と、それに反応する機械の正確な動きだけだ。
その完璧な、ミスも隙もないマスターの行動が、しかし宇宙的規模のシンクロニテイーを呼
び起こしていた。コンピュータのデータにはまったく刻み込まれていない不確定要素、運命の
大きな輪が、このちいさく不恰好な機械を見えないヴェールで包み込んでいた。
マスターの視界モニターは判読不能の色彩パターンを感知した。マスターの聴覚センサーは
、工場から送り出されて以来、はじめてまったくの無音状態を記録していた。どんな時でも機
関内の僅かな電気音や計器の作動音を感知し続けていたのに、この時ばかりは音センサーは自
然状態では有り得ざる数値、〈周辺音量ゼロ〉を記録した。あらゆるデータベースに照らし合
わせても判読不能の色彩と、有り得ざる無音の中で、マスターに考えられることはひとつしか
なかった。つまり自分が機能麻痺状態に陥った、ということだ。「死」という概念はロボット
にはない。あるのは機能停止、制御回復不可能という、いたって事務的な温かみのない文字の
羅列だけだ。
マスターの環境感知センサーは風を感じていた。下から上へと吹き上げる風。それは「落ち
る」と言うパターンと一致するとコンピュータは判断した。落ちている。マスターはそう感じ
た。人間たちがよく口にする「死」というのは、つまりこうやって「落ちる」あるいは「落ち
続ける」ことなのだろうか? コンピュータはしばしその問題について思考を巡らせていたが
、すぐにそのコンピュータもいっさいの機能を停止させた。
その直前にコンピュータはアラーム音を周辺に放射した。
その音もマスターのセンサーには記録されなかった。
しかし電気信号が確かに放射されたことだけは、しっかりとコンピュータは確認した。
それが最後だった。
マスターはどことも知れない亜空間を、どこまでもいつまでも落下し続けた。
どこか別の世界で、マスターとは縁もゆかりもないひとりの少年が、同じようにどことも知
れない時間と空間のはざまを落下し続けていることなど、このちいさなロボットがたとえどん
なに高性能を誇ってるとしても、やはり知り得ようはずはなかった・・。
(つづく)
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